綴れば綴る程に遠くて

主に思考記録です。

2年振りに実家に帰った。地元の夏は相変わらず肌寒かった。訛りのある会話を耳にすると、やっと帰ってきたのだと実感が湧いた。

 

2年前、母と喧嘩別れをしてから帰っていなかった。

帰省するたびにお金をせびる母に限界を感じたわたしは「いい加減にしてよ!」と大きな声をあげた。いつもそうだった。「ちょっと足りなくて」を繰り返していた。うんざりだった。父と離婚して母方の家に越したあと、家計は医師である祖父が支えてくれていた。母は働くことはなく家にいた。父のDVが原因でうつ病になっていたこともあり、働ける状態ではなかった。そもそも、父と結婚する前働いていたのだろうか。未だに謎である。

正直母との思い出に良いものはあまりない。パッと出てこないくらいだ。幼い頃ならば幾つか挙げられるが、中学高校の頃は思い出せない。

 

2年前、東京に戻る日はろくに顔も合わせず、わたしは黙って家を出た。

 

実家には先に帰ってきていた妹と姪がいた。「ただいま」と言って玄関の扉を開けると母と姪が迎えてくれた。2年振りの母に大きな変化は感じなかった。もともと化粧をする人ではなかったし、お洒落に気を遣うタイプでもなかったので尚更だ。

 

今回は1週間と長めの帰省だ。お盆に帰ってきたのは何年振りだろう。正直なところ、祖父母の御墓参りが一番の目的だった。2年も御墓参りに行ってないなんて、という思いが強かったのだ。そしてもう一つの目的が父の御墓参りだ。13歳の時、父が死んで一度御墓参りに行ったきりだった。あの時は憎しみでいっぱいだった。「なぜこの男の為に」そう思っていた。6月にオープンカウンセリングを受けて行こうと思ったのだ。13歳の頃の自分が未だにわたしの中で頑張ろうとしている。そんな自分をもう解放してあげたかったのだ。

 

帰省3日目、わたしは妹と隣に住む親戚と父の御墓参りに行った。墓石の前に立つわたしの心は穏やかなものだった。許されることではないと今でも強く感じている。でも、これを乗り越えられないとわたしはわたしに還れない。わたしの為に、あの頃からただひたすらに頑張ってきてくれた13歳のわたしを解放する為に、わたしは手を合わせた。とてもクリアな気持ちだった。わたしの中の痞えの一つが、消えてなくなった。

 

実家での生活はゆるやかなものだった。いつもより少し遅く起きてコーヒーを飲む。何もしない生活もまた幸せだった。母は姪とよく一緒にいた。というよりも、姪が母の後ろをてくてくと歩き、抱っこをせがみ、母から離れなかったのだ。「ばあばは膝が悪いからおばさんが抱っこしてあげる!」と言うと姪は首を横に振り、また母にせがむのだった。微笑ましかった。おむつを替えてあげたり、食事の際エプロンをつけてあげたり。とても、とても微笑ましかった。

 

それと同時に母はこうやってわたしたちの世話もしてくれたのだろうかと考えた。3人の娘をこうやって育ててくれたのだろうかと。父のことで悩み、苦しみながらも踏ん張って育ててくれたのだろうかと思ったら自分が情けなくなった。

どうして、大事なことに気付くのは大人になってからなのだろうか。

結局、わたしは何も知らなかったのだ。何も理解しようともしていなかったのだ。誰にだって目につくところはある。完璧な人間なんていない。完璧な親だっていない。不器用で真っ直ぐに伝えることが苦手な親だっている。でも親はいつだって子どもの幸せを願っている。母もそうだったのだ。電話をくれたのも、手紙をくれたのも、写真を送ってくれたのも、全部わたしに向けられた愛だったのだ。こんなにも愛されていたのだ。どうして、今更気付いたのだろう。母はいつだってわたしたちのことを想ってくれていたのだ。そして、今もきっと。わたしたちは一生母の子どもなのだ。嫁に行こうが、独身貫いて自由に生きていようが、何処にいて何をしようが母の「子ども」なのだ。

 

帰省していた1週間わたしはたくさん「ありがとう」という言葉を掛けた。母はやっぱり母で、たくさん気に掛け、色々と世話をしてくれた。空白の時間を埋めようとは思わない。埋められるとも思わない。ならば、これから新たに積み上げていけばいい。思い出も想いも、言葉も。

 

母は最期の時、わたしが娘で良かったと思ってくれるだろうか。どんな人生だったと思うのだろうか。辛いこともあったけれど、良い人生だったと思ってくれるだろうか。わたしは母の最期の瞬間まで、これから何が出来るだろうか。今も考える。最期、共に居たいと思う。正直、東京での生活を数年内に終わりにしようかとも考えている。

 

母がわたしを愛してくれるように、わたしもまた母のことを愛している。

これが愛なのだと、今そう感じている。