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それは遺書のようなもので。

なぜわたしは言葉を残すのだろう。なぜ、書くのだろう。 文章が上手いわけでもなければ、多くの言葉を知ってるわけでもないのに、自己満のように書くのはなぜだろう。そんなことを先月あたりからずっと考えていました。わたしでない誰かの方がとても良い文章を書くし、心に残る文章を書く。わたしが書く必要なんて全く持ってないのに、なぜ書き続けるのか。

 

今年はたくさん本を読もうと決めていました。わたしはやっとの思いで先月から少しずつ本を読み始めました。懐かしい本や新しく出会った作家さんなど毎日数ページずつめくり、言葉を目で追い、消化していく。

10年振りに読んだ本があります。重松清さんの「哀愁的東京」です。短編集ではありますが、1つの大きな物語として収められています。わたしはこの本が大好きで東京に憧れていた15歳前後のときに出会いました。10年振りに読み、懐かしさと今だから分かる、響く言葉や想いがたくさんあって泣きながら読みました。そして9つあるお話のうちのひとつ「ボウ」を読んだときに冒頭の疑問の答えが見つかりました。

 

少し、この本のご紹介をしたいと思います。

 

主人公は新作が描かなくなった絵本作家進藤宏、40歳。彼はフリーライターで生計を立てていました。フリーライターという仕事を通して、また絵本作家進藤宏として、様々な人に出会います。破滅を目の前にした起業家、閉園を迎える遊園地のピエロ。ピークを過ぎてしまったアイドル、そしてボウで書かれているのが生の実感を失った同級生であるエリート会社員。東京という一見煌びやかな街にも、哀しくも深く残る物語はあって、彼の目を通してわたしたちはまた東京という街を知ることができます。

 

ボウでは生の実感を失った同級生が、進藤に「どんな形でもいいから自分のことを文章にしてくれ」とお願いをします。自分が自分であるという証拠が欲しいと。自分がゼロになっていく、失われていく感覚があって、その時を迎えるのが怖いのだと言います。わたしはこれを読んで思いました。わたしもわたしが生きていたという証が欲しかったのだと。わたしのこの言葉たちはわたしが生きていた証拠であり、言ってしまえばある意味遺書のようなものなのではないか、そう思いました。

 

何のために書くのか。

 

わたしはただ単に自分が生きていた記録が欲しかったのです。自分がこの瞬間生きていたのだという証拠が欲しかった。ただ自分のためだけに、わたしがわたしでいたという、生きていたという証が欲しくてわたしは書いていたのだと気付かされました。それは寂しいことだと思われるでしょう。当たりです。わたしは誰かに、わたしが生きていたのだと確かめて欲しかった。未来のわたしでも構わない。誰かに証言者になって欲しかった。わたしは寂しい人間なのです。でもこれもわたしですから、寂しくとも、狡くとも、嫌な人間であろうともわたしは今を生きている。今こうして、文字を残してわたしを残している。そして数日後か数週間か、数ヶ月後か分からないけれど、わたしは読み返してわたしを確かめるのでしょう。 

 

言葉は証であり、真理であり、遺書でもある。