綴れば綴る程に遠くて

主に思考記録です。

生を浮き彫りにする死、そして後悔。

会いたい人がいるなら、会えるチャンスがあるなら全力で乗っかってほしいとわたしは思う。わたしがそう強く感じ、友人にも言うようになったのは雨宮まみさんの死があったからだ。

 

彼女のことは昨年春先くらいにとある雑誌のWEB連載で知った。初めて読んだ時、完全に引き込まれていて、過去の連載を読み、別の連載を読む、そんな感じだった。中でも「まじめに生きるって損ですか?」には救われた部分が大きい。非常に勉強になったと感じた連載は「40歳がくる!」だった。いつか彼女に会って感謝の気持ちを伝えるんだと、そう意気込んでいた。

 

だが、それは叶わず終わる。

 

本当にいきなりのことだった。その日の夜は勝手に涙が出てきた。友達でも家族でも何でもない人、ただわたしが一方的に憧れていて大好きだった人。関係性のない人の死で泣いたのは初めてだった。そしてきっとこの先もないだろう。そしてわたしはここで後悔をした。

 

9月末に八重洲のブックセンターで行われたイベントに行けなかったことを後悔した。イベントの告知が出た時既に予定が入っていて、「行きたいけど予定がある。ずらしてもらえるかもしれない。でもこちらから声を掛けた約束だから厳しいだろう」そう思い、次は絶対行こうと決めていた。でも次はなかった。これは本当に後悔した。

 

まみさんに何も伝えられなかったことが本当に悔しかった。まみさんのお陰で自分がどう変わったのか。まみさんのような女性になりたいと思っていることも、わたしにとっての憧れの女性であることも、何1つ伝えることができなかった。彼女が亡くなった後、数週間は人と会うのが嫌だった。目の前にある「生」を感じた時彼女の「死」が浮き彫りになって辛かった。あのとき、一声掛けていたら、イベントに参加していたらそう思う日々だった。

 

先約を第一に優先としているが、心から行きたいと思ったらもうそれは運命なのだと、今ではそう思う(話は少しズレるが、そうやって今自分が欲しているものを素直に与えてあげることは、実はとっても大切なこと)行きたいと強く思ったのならば、いや強く思ってはいなくとも、会えるチャンスがあるならわたしはそこに全力投球をしてほしいと思う。

 

この時代、同じ時代に生まれ出会えたのだから、それはもう奇跡だ。その想いを伝えたいのなら伝えればいいし、会いたいのならば会いに行けばいい。それはもうロジックではなく「想い」だ。言い換えるならばそれは「愛」だとわたしは思う。