綴れば綴る程に遠くて

主に思考記録です。

言葉のご紹介

手帳に書き留めた言葉たち。千は超えていると思う。たまに手帳から今の自分がいいなと思ったものを書き出して、「今」この瞬間のわたしが何を考えて何に悩んでいるかを見つけていったりしている。

 

 

 

あの人やあの人の道を照らしだす そんなことばが欲しいと思った。

 

加藤千恵

 

 

 

人は時に、

健気に生きているだけで、

誰かを救っていることがある。

 

東野圭吾

 

 

 

わたしの存在そのものが質問なんだ。

その答えを知りたくて生きてるんだ。

 

寺山修司

 

 

 

俺のカッコいいとことか、情けないとことか、くだらないとことか全部知ってくれる人がさ

世の中のどこかにいると思うだけで俺はいいの それで十分なの

 

本当だから信じるんじゃなくて、信じるから本当になるっていうの、わかる?

 

木皿泉

 

 

 

ビー玉をあまた購う人生の どこに落としてくる道しるべ

 

細溝洋子

 

 

 

八百枚の小説でも、本当に大切なのはその中のたった一行なのかもしれない。

 

小川洋子

 

 

 

あなたは愛される

愛されることから逃れられない

たとえあなたがすべての人を憎むとしても

たとえあなたが人生を憎むとしても

あなたは降りしきる雨に愛される

微風に揺れる野花に

えたいの知れぬ恐ろしい夢に

柱のかげのあなたの知らない誰かに愛される

 

谷川俊太郎

 

 

 

人間は人生の必要な時期に必要な人間としか出会わないし、そこで色々と学び尽くして一緒にいることの意味がなくなれば遠ざかっていくのは仕方ない。

 

島本理生

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先に活きるか

 

自分が今やっていることが先に活きるかはわからない。

 

でも、

 

それでもやることが情熱なんじゃないかなあ。

 

 

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「失敗したら」

大人になって、わたしは臆病になった。何かに挑戦することや未知の世界に対して、希望や期待の気持ちよりも恐怖や不安に思う気持ちの方が強く出てしまう。傷付くのだって嫌だ。体と同じで心の傷だって治りにくくなってしまったから。ああでもない、こうでもないと脳内で議論が繰り広げられる。その中で最も飛び交うのが「失敗したらどうしよう」という言葉。決して口にはしない。わたしは強がりで、他者にそんな弱みを見せるなんてそんなみっともないこと出来ないからだ。弱さをみっともないことと認識しているのだ。その話はまた後日したいと思う。

 

先月のこと、わたしは1ヶ月半ほど同じテーマついて考えていた。その日もアウトプット用のノートに自分の考えを書き出して読み返した。読みながら、いつものように「失敗したらどうしよう」という言葉が何度も浮かんだ。結局、わたしにないのは恐怖心に打ち勝つ強い精神ではなく、そこに掛ける情熱なのではないかと悩んだ。間違いなくこれも一つであろう。自分にちょっぴり失望して溜息を吐いてしまった。そして注文していたコーヒーを一口。そのとき疑問が降りてきた。

 

「そもそも失敗ってなんのこと?何を指しての失敗なの?」

 

よくあることで、紙に書いた自分の気持ちを読むことで客観視出来るのだ。まるで誰かの気持ちを、思いを読んでいるような感覚。

 

どうして今までそこに注目しなかったのだろう、と自分の中で気付きがあった。ここでまたペンを手にして「失敗」について書き出してみた。わたしが考えていた失敗は「思うような結果にならなかったこと」重点を置いていたのは「結果」の部分だというのが分かる。しかし改めて考えてみると全く違う方向からとらえることができた。

 

「失敗」とは、

思うような結果にならなかった場合そこから何も学ばないこと、何も生かせないこと。

 

このことを「失敗」と言うのではないだろうか。そう考えると失敗なんてそんなにしていないのでは、そう思えてくる。何故なら学ぼうとしているから。何がきっかけでそうなったのか、次はどうすれば良い方向に向かえるのか考えているから。次に生かそうと頭を使っているから。そしてそれは「失敗」ではなく「経験」や「学び」とも言える。

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続けていくことはさ、戦うことなんだよ

先日の「誰もがプロ」の続きのようなもの。

 

わたしはタイトルの言葉が好きだ。

 

続けていくこと、

仕事、人間関係、趣味などなど様々なことに当てはまるだろう。

 

では「自分」はどうだろう?

 

この言葉は自分自身にも当てはまる。

今日まで誰でもない自分自身を続けてきた。明日もわたしはわたしを生きるだろう。そして、あなたもあなたを生きるだろう。

 

あなたはあなたを続けてきた。そうやって生きてきた。あなたはあなたを続ける中でどれ程のことと戦ってきただろうか。ときに涙を流し、ときに誰かに悩みを打ち明けながらも、最後まで戦ってきた筈だ。誰でもない「あなた」を。

 

もう周りの人たちと比較するのは辞めにしないか?

だって無意味だから。あなたはあなたを戦ってきたのに、誰でもない自分自身と生きてきた筈なのに、まだ他人に左右されるのか。もういいじゃないか。あなたはもう十分に「凄い人」。周りのみんなが特別に見える、それは気の所為だ。気付いてないだけ。あなたは本当は凄い人なんだってこと。あなただって特別な人なんだってこと。

 

あなただって誇り高き人。

 

誰しもがプロ

「自信」って何だろう。

 

「自分に自信がない」「自信が持てない」そう感じている人は少なくないだろう。寧ろ多いかもしれない。わたしもそうだった。大学を出たわけでもないし、一般企業に勤めたこともない。専門職で、資格もない。容姿も美人でも可愛い部類に入るわけでもない。痩せているわけでも、メイクが上手なわけでもない。身長だって低い。おまけに声も低めだ。特にこの声なんかコンプレックスだった時期がある。挙げたらきりがないくらい、自分の嫌なところがありふれていて自信なんて全くもってない。そうやって24年間生きてきた。「わたしなんか」言葉にしなくても心の中で何度も思ってきた。

でもある日「まだ若いから」という言葉を掛けられた時、違和感を覚えた。何度も掛けられた言葉に感じた違和感。それは今までに感じたことのないものだった。

 

「若い?わたしがわたしを24年も生きているのに若いの?24年なのに?」

 

人は数字にばかり左右されすぎだ。わたしはわたしを24年間生きてきた。本当の意味で向き合ってきたのは1年そこそこかもしれない。でもわたしは24年間生きてきたのだ。初めての受験も、部活で顧問の先生と言い合いになったときも、夏期講習や冬季講習が辛くて1日だけサボっちゃったときも、失恋して号泣したときも、家族を失ったときも。どんなときだってわたしはわたしを生きてきた。死にたくなったときだって、わたしはわたしを生きてきた。1日足りとも放棄することなく、生き続けてきたのだ。

 

それに気が付いたとき「ああ、わたしはわたしを生き続けてきたことが、わたしであり続けた日々が何よりも自信になる」そう思った。ずっとずっと自分を続けたことが何よりも自信になると気付いたのだ。何が出来なくとも、わたしはわたしをやってこれた。これだけで十分じゃないかと、そう思ったのだ。24年間わたしを生き続けてきたわたしは謂わば、わたしの「プロ」なのだと気が付いた。この仕事に就いてまだ8年なのに、わたし歴25年(今は25歳)プロ中のプロじゃないかと。50年越えたら「師匠」かなあ、なんて能天気なことも考えている。

 

誰しもが自分自身のプロ。

誰もあなたにはなれないし、誰も本当の意味であなたを理解することは出来ない。あなたを知り得ることは出来ない。それが出来るのはあなたしかいない。だからあなたはあなたのプロ。

 

もう人の評価なんていいじゃないか。あなたがあなたを続けてきたことが何よりの自信にはならないだろうか。わたしは嫌なことがあったとき、辛いとき「それでもわたしはわたしを続けてきた。それが何よりの誇りだ」そう思っている。

 

特別な人なんていない、本当は。ひとりひとりが凄い人でひとりひとりが誇れる人。

 

わたしが一番知ってほしいこと。一番伝えたいこと。

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女子をこじらせて。 -女が女を殺すとき-

先日こんなことをツイートしました。

 

「女」だからって女を突き詰める必要なんてないはずなのに、女だから綺麗でありなさいなんて、本当はそんなこと必要ないのに。「女」というだけであれもこれも強要さ」ているような気持ちになる。いい加減にその「女」を「人間」に置き換えてくれ。

 

社会が「女はこうあるべき」と言ったり男性上司から「女は結婚して家庭に入った方が幸せだ」と言われたり、昔より自由になったらなったで、「女」を強要されているような発言は増すばかりではないだろうか。わたしが言われた訳ではないが上司が数年前「女が社会に進出するから、」と発言していたことがあったらしく。非常に残念な気持ちだ。

 

女性の生き方や価値観は女性の数だけそれぞれある。

 

先日の某美容雑誌の記事に関しても疑問を抱いてしまったのはわたしだけではないようだ。わたしは最近「モテ」や「愛され」「目指すのは〇〇な女」という文字を見る度に殴りたくなる気持ちになる。結局「女」を強要しているのは社会や一部の男性よりもわたしたち「女自身」なのではないかと思ったのだ。モテて愛されることってそんなに大事なことなのだろうか。女として必要なことなのだろうか。女として誇るポイントになるのだろうか。こうなってしまったら溢れ出て止まらない疑問。

 

結局女が女を殺し続けているのではないかと感じた。

 

お前が女子こじらせてるからだろうと言われたらそうですね、としか返せないが「女子をこじらせているかどうかではなく、女としてよりも1人の人間として人生どうするか真剣に考えたことあるの?」と一緒にお言葉を返したいですね。女が女を強要しているから女は女に囚われて生きているのではないか、わたしはそう感じている。女が自由になれないのは女にも原因はあるのだと思う。自分たちが自分たちを殺しているだけだよきっと。

突き詰めて

今朝職場で「人生もっと気楽に考えたら?」と言われた。常に突き詰めてるよね、とも。

 

「人生どうするか常に考えてます」と話をしたらこう返されたのだ。もう十数年もずっと考え続けていること。この思考がクセで、これがわたしなのだ。

選択肢の一つとして提示するならまだしも「何言ってるのこの子」そんな雰囲気をわたしは感じ取った。人生の歩み方の違い、それだけ。それだけなのに、と思ってしまった。

 

コーヒーを例えに話してみたいと思う。

アメリカン、ブランド、エスプレッソの中ならわたしはアメリカンが好きだ。それぞれの味わいや美味しさを知った上で、わたしはアメリカンが好きだと言う。ブレンドよりも、エスプレッソよりも。

ある人は言った。「エスプレッソが最も美味しい。エスプレッソ以外なんてありえない」ブレンドの美味しさもエスプレッソの美味しさも知った上で話しているのに、何もわかっていないとでも言うような言い方。悲しいような、残念だなあと感じてしまうような感覚。それはあなたの価値観で、わたしとは違うのに、そう思ってしまう。

 

わたしは他人にどう思われるかよりも今、自分がどう感じているのか、自分にはどう見えているのか、それが自分にどう作用していくのか。そこにしか興味はない。自分ご都合主義なのだ。数あるコーヒーの中からアメリカンを選んだにすぎない。

 

明日死ぬかもしれないから今日を自由に生きるのか。明日死ぬかもしれないから全力投球をするのか。これだって、どっちを選んだって良いはずだ。

選んだ方が自分の望んでいることであって、それ以外はなにもない。

 

他者が望む自分よりも、己が望む自分を生きる。

それでいい。それが己の人生を生きるということだとわたしは思う。自分が何を欲しているか。何がしたいのか。どこにいきたいのか。自分に問い続ける。そして答え続ける。他者の言葉よりも己の言葉に耳を傾けて。わたしらしくありたいなら、わたしに問い続けるべきだ。

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