読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

小説「消滅世界」

両親の性行為によって生まれた主人公雨音。彼女の世界ではセックスは「昔」のもので、消滅しつつあるものだ。夫婦間のセックスは近親相姦とされ、人工授精で妊娠、出産が当たり前となった。結婚して「家族」にはなってもお互い恋人がいた。恋人は画面の向こうの相手、もしくはヒトだ。それがこの世界の「正常」
しかし、「家族」という概念も実験都市千葉県ではなくなっていた。「楽園(エデン)システム」と呼ばれる世界では、子供は全人類の子供として育てられ、大人たちは皆「子供ちゃん」の「おかあさん」となった。家族なんてものはない。子供ちゃんとおかあさんしかいない世界。

 

平成あやふやラジオというLINE LIVEで聴ける番組で紹介されていて気になったので読んでみた。読み始めたら止まらなくて、1日で読み終わってしまった。

読み終わって抱いた感情は「恐怖」だった。III章からの展開には吐き気がした。恐らく、ありえない世界とは言い切れないと思ったからだろう。こうなってもおかしくないと、何故かそう思えて仕方がない。

子供は、命は神秘なのだろうか。愛する男女が性行為をして、誕生した命は素晴らしいものだと綺麗だと言い切れるのだろうか、そう思わされた。人工授精で妊娠できるならそれで良いじゃないかとわたしも常々思う。性行為が1つの愛の形とはどうしても思えないからだ。ただの本能、と言われたら「そうなのね」で返せるが、自分が親の性行為で生まれたのだと思うと正直ぞっとする。親が幼い頃DVで離婚していることもあるので、本当にわたしは2人が望んだ命だったのだろうかと疑問に感じることもあった。捻くれているのは分かっている。でもわたしはセックスに対してこういう思いしかないので人工授精には賛成だ。ついでに言えば、愛するもの同士でなくても、より良い種を求めてパートナーを探したり、結婚するこの世界もいいと思う。好きで超えられるものばかりではないから、生活や収入、この先の未来を考えて合理的にする結婚もありだと思う。もう、こうなったら何でもありだ!本人たちが納得していれば好き同士で結婚しようが、条件だけをみて結婚しようが、何でもありだ。

「家族」なのに、恋人がいるというのはとても面白いなと思った今この世界に生きるわたしたちにとって、作中世界こそ「異常」と言えるので違和感は大きかったが。2次元が恋人というのもわたしは好きだ。2次元は裏切らないから一方通行のようでそうではない、そう感じさせてしまう部分があるのではないだろうか。

問題のⅢ章だが、越してきて初めて行った公園でのシーンでまず吐き気がした。「子供ちゃん」と呼ぶ「おかあさん」にも、その「子供ちゃん」に愛情のシャワーを浴びせる「おかあさん」にも。何の違和感も、疑問も持たず「おかあさん」と呼ぶ「子供ちゃん」にも。楽園(エデン)システムに吐き気がした。余りにも異様すぎる。この千葉の実験都市では男性も人工子宮を付けて妊娠ができる。成功例はなかったが、雨音の夫である朔が成功させる。出産シーンの描写にまた吐き気がした非常に生々しかった。そして朔は楽園システムに染まっていく。何が正常で異常なのかわからなくなった雨音は笑い声とともに狂っていった。


ラジオではどの年代までが楽しめるのか気になるとおっしゃっていたが、わたしは結婚していて子供が欲しい人、結婚していて子供がいる人、結婚していて子供は作らなくていいと思っている人、それぞれの感想も気になった。

 

感想を書くことはとても難しい。必死に書き始めて2時間近くも経っているのにこれくらいしか書けていない。世界からセックスも家族も消えたら、貴方はどう思うか。そんなの嫌だと思う人にも、消えてしまっても構わないと思う人にもぜひ一度は読んでほしい。ヒトとして生きるか、人として生きるか、どちらが良い選択と言えるのだろうか。

 

f:id:trsfthplstr:20170421220352j:image

広告を非表示にする

生きながら、少しずつ死んでゆくわたしという存在。

命あるものはいずれ死ぬ。物はいずれ壊れる。今日一日を生き、明日を迎えたとき、今日という日は切り離されて死ぬ。今日を生きて、わたしはまた一日死に近づく。

 

絶対的な死。変えられないもの。わたしたちのおわり。

 

死を意識したのは今に始まったことではない。幼い頃「死ぬ」とはなんなのか考え、恐ろしくて泣いたこともあった。今でも正直恐ろしい。死んだらどうなるのだろう。魂は本当にあるのか。死んだということすら分からないままなのではないか。様々なことを考えるも最終的に死なないと分からない、で終わる。考えても仕方のないことなのかもしれないが、それでもわたしはやめなかった。

 

今でも考える。あの頃と違うことと言えば死を受け止め、見据えどう生きようか、はたまたどう死を迎えようか考えていることだろうか。そしてもうひとつ。

 

それはリミットだ。

 

あと何回満月を見ることができるだろうか。あと何度友人と食事に行けるのだろうか。あと何度、家族のことを想えるのだろうか。あと何度、あと何度と自分にはどれだけ残されているのか気にしてしまう。明日事故にあって死ぬかもしれないし、限界を感じて死ぬかもしれない。それはわたしにも分からないし、きっと神様にも分からないのではないだろうか。分からないけれども、無限でないことは分かっている。だから気にする。

 

今日の空は今日だけのもの。今日のわたしは今日だけのもの。今日の風は今日だけのもの。一日一日が大事で、限られた時間の中でわたしたちは生きている。掛けてくれた言葉も、もう直接聞くことはないかもしれない。そう考えるとどうしようもなく自分の人生が、今日のこの空が、誰かの声が愛おしく感じる。感謝の気持ちが湧き上がってくる。

 

怖いだけの死はもうわたしの中にはない。与えてくれたのは感謝の気持ち。その気持ちを、大事に大事に育てよう。

 

死もまた二面性を持ち合わせている。

女子をこじらせて。

女子という年齢ではないが、もうそこは気にしないことにする。

 

姉から個人宛で妊娠したと連絡が入った。驚き「え?!?!?」と返したら「嘘じゃないよ。でも市販の検査薬でやっただけだから月曜日病院に行って診てもらう。また報告するね」とのことだった。そこから「おめでとう」すらも返せていない。  

 

わたしには2つ上の姉と1個下の妹がいる。妹は2年前に結婚、1年数ヶ月前に出産。姉は昨年秋に結婚。子どもが欲しいことも口にしていた。わたしというと、浮いた話の1つもない。過去にとらわれずわたしの人生を生きよう。恋愛にも向き合って行こうそう思っていたところだった。

 

正直なことを言えば感情よりも先に涙が出て来た。そして、後からきた感情はこうだ。

 

「何故同じ女なのに、こうも差が出るのだろう。何故わたしは女として上手く生きれないのだろう。どうして」

 

女であることを拗らせて生きてると幾つのときから感じているだろう。友人の報告は素直に良かったねと言えるのに、どうして言えないのだろう。友人は友人でしかないからだ。姉妹というのはなぜこんなにも辛いのか。これが兄や弟で、彼らの奥さんだったらまた違っただろう。言われても、彼らは男で妊娠はできない。奥さんが妊娠した、子どもできたで終わる。でも姉や妹はわたしと同じ女で、わたしと同じ体の構造をしている。同じ「なのに」

 

馬鹿みたいに涙が止まらなかった。今もふと、出てしまいそうだ。姉からは姉妹のグループラインではなく個人宛に来たところが、また心抉られるポイントである。

 

女を拗らせこの先も生きるきっと。何年も何年も「どうして」と思いながら。報われたいとかそういう単純なことではなくて。わたしは何を今迄生きて来たのだろう。いつかの失恋したとき、それ以上に泣いてしまっている。でも泣くのも疲れる。今日はついてない日そう言い聞かせる。実際今日は朝からついてないことだらけだ。ケ・セラ・セラ。明日は明日の風が吹く。でも今のわたしは明日になんて期待したくない。この先にも、期待なんてしない。そんなもの無意味で無価値だ。そんなことよりも明日の仕事を休みたいくらいの気持ちでいっぱいだ。わたしはこれから何処に行こう。どう生きよう。いっそ行方をくらませてしまいたい、そう思ってしまうくらい。どうしよう、どうしたい、よりもわからないのだ。

 

この気持ちを分かってほしい、とは言わないけれど今だけは間違ってるなんて言わないで欲しい。おめでたいことを喜べないことがおかしいこともわたし自身がよく分かってるから今は言わない欲しい。今だけはなにも言わずにいて欲しい。

 

そんな最低な自分込みで、今はこのまま、この感情のままいさせて欲しい。

 

広告を非表示にする

映画「彼らが本気で編むときは、」

この映画の製作が決まったとき、キャストが発表されたときからずっと楽しみにしてきた。公開日に観るつもりが仕事の目処がつかず、今日になってしまったのが悔しいが感想を。

 

全体を通して感じのはこれは彼らの「日常」ということだ。リンコさんとマキオとトモの日々。くすっと笑えるところが何箇所もあって、重苦しさは感じられなかった。勿論、受け止めるべきシーンもある。だが、わたしたちが生活するように彼らも生活を営んでいてそこに「特別」なんてものはなかった。

 

以前より性に関して目を向けられるようになったのは事実だが、それを受け入れたり理解することはまだ難しい社会も観せていたと思う。大きな枠組みの話だけではなく、この作品に関して言えば身内や学校、トモの同級生のお母さんのこと。作品に限らず言えば会社、交友関係なども挙げられる。理解してくれる人もいるがそうでない人もいる。スクリーンが鏡のように思えた。このスクリーンが今の社会を観せ、わたしたちに投げかけている、そう思った。

 

ここでカミングアウトというのも何だか変なものだが、わたしもセクシャルマイノリティーの1人だ。わたしはバイセクシャルで、カミングアウトしてる人は少ない。知っているのは姉と妹、ごく僅かな友人と昔一緒に働いた年上の方々だけ。母には未だに言えていない。母にこそ言うべきなのかもしれないが少し関係が複雑なこともあり未だに、といったところだ。自分にとってそれは「普通のこと」でも「普通ではない」そう考える人もいるから安易には言えない「性別なんてどっちでも良いじゃないか、そんなの後付けだ!」とわたしは考えている。しかしそれを関わりのある人全員が受け入れてくれるとは考えていないし、受け入れて欲しいとも思わない。ただ、その違いを「わたしとは違う、だからこそ魅力的」そう思ってくれる人がいたら良いなとは思う。高望みであることは分かっているが、わたしたちは一人一人違う。造形や考えだけではなく、生き方や性に関しても。人と違うポイントは沢山ありますが、それをその人の魅力だと捉えてくれる人がいれば良いな願う。

 

リンコさんのお母さんがトモと初めて会った、食事をしたシーンで言った言葉に涙が出てきてしまった。お母さんってなんて強い存在なのだろうと、改めて感じたのだ。娘として育ててきたお母さんの強い思いを感じた。そんなお母さんに育てられたリンコさんだからこそ、最後トモのお母さんにああ言ったのだと思う。

 

家族にも様々なカタチがある、というところもこの作品の注目すべきポイントだと思っている。トモとトモのお母さん、リンコさんとリンコさんのお母さん、カイとカイのお母さん。そして本当の家族ではないがリンコさん、マキオ、トモの3人。様々なカタチがあるからこそ、自分の思いを言えたり言えなかったりするのだと思う。わたしもそういう環境にいる1人だからか観ながらスッと入ってくる感覚があった。

 

リンコさんは人として素敵な人だった。女性としてのあたたかさもあり、優しさに溢れ、マキオが惹かれたのもとてもよくわかった。

 

個人的にあの終わり方がある意味スッキリしていてとても良かった。他の方はどう感じたのか気になるところではある。最後、其々が感じたのは相手への愛だったのではないかとわたしは思う。リンコさんとマキオの最後はとても印象的だった。

 

ずっとずっと楽しみにしていた作品だったので観ることができて非常に嬉しかった。これが誰かの何かのきっかけになればと思う。 

f:id:trsfthplstr:20170302173018j:image

舞台「ノラガミ−神と絆−」

前作に引き続き観劇してきた。今回は恐らくアニメ2期後のお話、ということであっているだろうか。ノラステは脚本がオリジナルとあって、キャラクターの新たな面、描かれることのなかった日々を観ることができる舞台だ。

 

前回も大変良かったが、今回は前回より何倍も、何倍も良かった。本当に素敵だった。

 

今回オリジナルとして出てきた神がいる。「争いごとを願う人々の心から生まれてきた」神、敢御。彼は言った。「新しい時代は争いと共に生まれた」「平和という感覚は争いがなければ実感できない」「故に、争いは必要である」

 

此処でリンクしたことがあった。小説「虐殺器官」に出てくる虐殺の種を蒔く男ジョン・ポールのことを思い出したのだ。彼も少数のために多数を犠牲にしていた。愛する人の平和を守るため、此方側に目を向けないように自国の者同士で争って貰おうと。そうやって国々を渡り歩き虐殺の種を蒔いていく。それがジョン・ポール。

 

彼らの言っていることは間違っていないと思う。現に、わたしたちの平和は多くの犠牲の上に築かれているからだ。それは命を亡くすという目に見て分かるものだけではないり

 

ここでもう1つ思い浮かべたことがある。これからの4年間のアメリカ、そして世界情勢に関してだ。敢御の言葉を聞いて、これから先の世界のことを言っているようにも感じた。そういう意図はきっとないのだろうが、世界が動き出すタイミングではあるなと感じたのだ。

 

 

敢御は新たな神器を得ることになる。災いを起こすとして幾度となく主から放たれた者に名を与え神器とした。それが颯丸だ。彼が出す霧は神と神器の連携、感覚を遮断する。その力を見た敢御は颯丸に自分の道標になるよう言った。時代を変えるには、新たな時代を作る為には颯丸が必要だと。主に必要とされたことが嬉しい颯丸は敢御の為に尽くそうと強く心に決める。だが、少しずつ敢御の描く世界と颯丸の気持ちにすれ違いが生じる。 そしてその気持ちは少しずつ大きくなり主を刺すことになる。ヤスミが発覚し、颯丸は己の気持ちを正直に話すことにした。

 

ノラガミという作品の良さは心情描写が丁寧に描かれていることではないだろうか。今回の舞台では特に神と神器のお互いを思う気持ち、すれ違いながらも相手を信じる気持ちなど、丁寧に丁寧に描かれていたと思った。また敢御と夜トという相反する神と神器の関係性を同じ舞台で見せることにより、その関係性には様々な形があるのだなということを再認識した。

 

今回終盤で「神は人が分からない」という台詞があったが、だからこそ歩み寄るその姿にぐっとくるものがあり、客観的に見て得るもの、感じるものが多いのではないだろうか。元人間の神器と神が歩み寄るその姿に。

 

個人的に雪音くんと夜トの関係性がどんどん良いものになってきたなと観て分かるのが大変嬉しく思う。植田くんの雪音くんが本当に好きだ。

 

ノラガミにしか出せない世界を今回は非常に感じることができた。もし次回作があるのならば、是非ともまた会場でお会いしたいものだ。

生を浮き彫りにする死、そして後悔。

会いたい人がいるなら、会えるチャンスがあるなら全力で乗っかってほしいとわたしは思う。わたしがそう強く感じ、友人にも言うようになったのは雨宮まみさんの死があったからだ。

 

彼女のことは昨年春先くらいにとある雑誌のWEB連載で知った。初めて読んだ時、完全に引き込まれていて、過去の連載を読み、別の連載を読む、そんな感じだった。中でも「まじめに生きるって損ですか?」には救われた部分が大きい。非常に勉強になったと感じた連載は「40歳がくる!」だった。いつか彼女に会って感謝の気持ちを伝えるんだと、そう意気込んでいた。

 

だが、それは叶わず終わる。

 

本当にいきなりのことだった。その日の夜は勝手に涙が出てきた。友達でも家族でも何でもない人、ただわたしが一方的に憧れていて大好きだった人。関係性のない人の死で泣いたのは初めてだった。そしてきっとこの先もないだろう。そしてわたしはここで後悔をした。

 

9月末に八重洲のブックセンターで行われたイベントに行けなかったことを後悔した。イベントの告知が出た時既に予定が入っていて、「行きたいけど予定がある。ずらしてもらえるかもしれない。でもこちらから声を掛けた約束だから厳しいだろう」そう思い、次は絶対行こうと決めていた。でも次はなかった。これは本当に後悔した。

 

まみさんに何も伝えられなかったことが本当に悔しかった。まみさんのお陰で自分がどう変わったのか。まみさんのような女性になりたいと思っていることも、わたしにとっての憧れの女性であることも、何1つ伝えることができなかった。彼女が亡くなった後、数週間は人と会うのが嫌だった。目の前にある「生」を感じた時彼女の「死」が浮き彫りになって辛かった。あのとき、一声掛けていたら、イベントに参加していたらそう思う日々だった。

 

先約を第一に優先としているが、心から行きたいと思ったらもうそれは運命なのだと、今ではそう思う(話は少しズレるが、そうやって今自分が欲しているものを素直に与えてあげることは、実はとっても大切なこと)行きたいと強く思ったのならば、いや強く思ってはいなくとも、会えるチャンスがあるならわたしはそこに全力投球をしてほしいと思う。

 

この時代、同じ時代に生まれ出会えたのだから、それはもう奇跡だ。その想いを伝えたいのなら伝えればいいし、会いたいのならば会いに行けばいい。それはもうロジックではなく「想い」だ。言い換えるならばそれは「愛」だとわたしは思う。

映画「ラ・ラ・ランド」

昨年劇場で予告を初めて観た時、それこそ「恋に落ちた」作品だった。ラ・ラ・ランド遂に公開。

 

Twitterにも書いたが、夢を追う人々の苦悩や挫折、喜び、強い思いや情熱が詰まっていた。わたしも夢追い人の1人なので共感してしまうシーンや一度はそう思ったことがある、そんなシーンもあった。少し記録したいと思う。

 

セブが自分の弾きたい、好きなジャズのスタイルではなく、バンド加入により新たな形のジャズを発信していく。ミアがそんな彼に対して「貴方は大人になった」と言った。この台詞は何とも言えない気持ちになった。自分の理想を、スタイルを貫くのは安易ではない。夢を捨てた訳ではないが、シフトチェンジしたとも取れるバンド加入。セブにも色々な葛藤があっただろう。それを思うとミアの発言に何故かわたしもぐさりとやられてしまった。

今度は代わってセブからミアへの言葉だ。「諦める理由は?」たくさん傷付いた、もう2度と傷付きたくない。彼女の思いも痛い程分かる。夢を追うことは苦しい。良いことばかりじゃない、むしろ苦しいことの連続で一喜一憂してしまうし、自分に自信をなくしてしまうこともある。そんな彼女の思いを聞いてもセブは諦めさせようとはしない。「絶対に受けるべきだ」と言い翌日迎えにきてオーディションに付き添ってくれる。セブが来てくれなければ、こんなにも強く言ってくれなければミアはきっと行かなかっただろう。そう思うとちょっぴり羨ましくなった。

 

夢って何歳まで追っても良いものなのだろうか。諦めの線引きは一体どこなのだろうか。わたしはいつまでこの夢を諦めずに追ってもいいのだろう、そんな気持ちになった。例えば10代に描いていた夢と、社会人になって新たに描いた夢。環境も己の価値観もガラリと変わり、夢に夢を見ているあの頃とは違う自分。そこについてくるものは不安や、周囲への思い(親を安心させたい気持ちはあるけどetc)など、決して明るいものだけではないはずだ。だからこそ揺らぐのだろう。

 

「夢」を追う2人は徐々に「夢」によってすれ違って行く。

 

上記に書いたオーディションにミアは無事合格し稽古3ヶ月、撮影4ヶ月というスケジュールでパリに行くことになった。オーディション直後のシーンで「これからのわたしたち」について話すシーンがある。そこでセブは自分はこの街にずっといる、そう宣言した。そしてミアの背中を再度押してくれたのだ。チャンスがあるなら、夢に近付けるなら。叶えたいという彼女の思いや情熱を隣で見て、時には感じてきたセブだからこそ言えた言葉なのだと思う。「そのために頑張ってきたんだろう?」そんな思いも彼の言葉に含まれていたのではないだろうか。互いにずっと愛していると言い、舞台は5年後へ。

 

5年後、ミアは女優として成功した。そしてセブも自分の店を持つことができた。

 

ここからだった。ミアには夫と子ども、彼女自身の家族が出来ていたのだ。心の中で「嘘でしょ?!」と思ってしまった。もしかしてこれは、とラストの予想をしてしまったのだが、案の定で当たってしまった。

 

子どもをシッターに任せ、夫と出掛けるミア。渋滞に引っかかり食事に行くことにした2人は高速を下りる。食事の後、車に乗ろうとしたとき1軒のお店から聴こえてくるジャズ。2人でそのお店に入ることに。そこで見たのはミアが考えたセブのお店の看板、そのものだった。前方の席に座る夫婦。演奏後、メンバー紹介をするセブ。そして2人の目が合った。言葉はない。なんと言えばいいものなのか、動揺があらわれていたように感じた。ここから演奏はセブに移る。ここから一緒になることを選んだ、もう1つの2人の物語が流れた。非常にテンポ良く、ロマンチックかつ幻想的。幸せそのものが溢れ出るものだった。

 

わたしはセブがピアノに触れた瞬間から涙が止まらなかった。もう1つの2人の物語は美しく、そしてきっと一度はお互い描いた「夢」なのではないか、そう思ったからだ。しかし2人はそれぞれの「夢」を選択し、月日を重ねてきた。共にいることを選べば叶うことのなかった夢。共にいることが出来たら現実となったであろうもう1つの物語であり2人の「夢」そう思いながらこのシーンは観た。2人は言葉を交わすことなく映画は終わってしまう。エンドロールで更に涙は溢れ、劇場が明るくなっても止まらなかった。友人と交わす言葉も少なかった。2人とも自分の内側からくる感情に素直に従い涙を流していた。

 

予想以上の作品だった。ミュージカル作品だけれども、歌ばかりではなくドラマもきちんとあり、そのバランスが非常に上手く取れていたと思う。「大事な人と見てほしい」と何処かに書いてあったが、わたしもそう思う。それは恋人、家族、友人。共に夢を追う仲間でも構わない。是非とも劇場の大きなスクリーンで観てほしい。普段はパンフレットは購入しないが、劇場を出て真っ直ぐ売店に向かった。何度も観たくなる作品。わたしにも夢がある。そんなわたしの背中を押してくれた作品でもある。初日に観ることができ本当に嬉しく思う。また劇場に、ラ・ラ・ランドの世界にお邪魔したいと思った。

f:id:trsfthplstr:20170224212908j:image