読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

映画「ラ・ラ・ランド」※ネタバレ含みます

昨年劇場で予告を初めて観た時、それこそ「恋に落ちた」作品でした。ラ・ラ・ランド遂に公開しましたね!

 

Twitterにも書きましたが夢を追う人々の苦悩や挫折、喜び、強い思いや情熱が詰まっていました。わたしも夢追い人の1人なので共感してしまうシーンや一度はそう思ったことがある、そんなシーンもありました。少し書きたいと思います。

 

セブが自分の弾きたい、好きなジャズのスタイルではなく、バンド加入により新たな形のジャズを発信していきます。ミアがそんな彼に対して「貴方は大人になった」と言います。これは何とも言えない気持ちになりました。自分の理想を、スタイルを貫くのは簡単ではありません。夢を捨てた訳ではないけれども、シフトチェンジしたとも取れるバンド加入。セブにも色々な葛藤があるでしょう。それを思うとミアの発言に何故かわたしもぐさりとやられしまいました。

今度は代わってセブからミアへの言葉です。「諦める理由は?」たくさん傷付いた、もう2度と傷付きたくない。彼女の思いも痛い程分かります。夢を追うことって苦しいです。良いことばかりじゃない、むしろ苦しいことの連続で。一喜一憂してしまうし、自分に自信をなくしてしまうことも。そんな彼女の思いを聞いてもセブは諦めさせようとはしません。「絶対に受けるべきだ」と言い翌日迎えにきてオーディションに付き添ってくれます。セブが来てくれなければ、こんなにも強く言ってくれなければミアはきっと行かなかったでしょう。ちょっぴり羨ましいです。

 

夢って何歳まで追っても良いものなのでしょうか。諦めの線引きは一体どこなのでしょうか。わたしはいつまでこの夢を諦めずに追ってもいいのだろう、そんな気持ちになりました。例えば10代に描いていた夢と、社会人になって新たに描いた夢。環境も己の価値観もガラリと変わり、夢に夢を見ているあの頃とは違う自分。そこについてくるものは不安や、周囲への思い(親を安心させたい気持ちはあるけどetc)など、決して明るいものだけではないはずです。だからこそ揺らぐのでしょう。

 

「夢」を追う2人は徐々に「夢」によってすれ違って行きます。

 

上記に書いたオーディションにミアは無事合格し稽古3ヶ月、撮影4ヶ月というスケジュールでパリに行くことに。オーディション直後のシーンで「これからのわたしたち」について話すシーンがあります。そこでセブは自分はこの街にずっといる、そう宣言します。そしてミアの背中を再度押してくれるのです。チャンスがあるなら、夢に近付けるなら。叶えたいという彼女の思いや情熱を隣で見て、時には感じてきたセブだからこそ言えた言葉なのだと思います。「そのために頑張ってきたんだろう?」そんな思いも彼の言葉に含まれていたのではないでしょうか。互いにずっと愛していると言い、舞台は5年後へ。

 

5年後、ミアは女優として成功します。そしてセブも自分の店を持つことができました。

 

ここからでした。ミアには夫と子ども、彼女自身の家族が出来ていたのです。心の中で「嘘でしょ?!」と思ってしまいました。もしかしてこれは、とラストの予想をしてしまったのですが当たってしまいました。

 

子どもをシッターに任せ、夫と出掛けるミア。渋滞に引っかかり食事に行くことにした2人は高速を下ります。食事の後、車に乗ろうとしたとき1軒のお店から聴こえてくるジャズ。2人でそのお店に入ることに。そこで見たのはミアが考えたセブのお店の看板、そのものでした。前方の席に座る夫婦。演奏後、メンバー紹介をするセブ。そして2人の目が合います。言葉はありません。なんと言えばいいものなのか、動揺があらわれていたように感じます。演奏はセブに移ります。ここから一緒になることを選んだ、もう1つの2人の物語が流れます。非常にテンポ良く、ロマンチックかつ幻想的。幸せそのものが溢れ出るものでした。

 

わたしはセブがピアノに触れた瞬間から涙が止まりませんでした。もう1つの2人の物語は美しく、そしてきっと一度はお互い描いた「夢」なのではないか、そう思ったからです。でも2人はそれぞれの「夢」を選択し、月日を重ねてきました。共にいることを選べば叶うことのなかった夢。共にいることが出来たら現実となったであろうもう1つの物語であり2人の「夢」そう思いながらこのシーンは観ました。2人は言葉を交わすことなく映画は終わってしまいます。エンドロールで更に涙は溢れ、劇場が明るくなっても止まりませんでした。友人と交わす言葉も少なく。2人とも自分の内側からくる感情に素直に従い涙を流していました。

 

予想以上の作品でした。ミュージカル作品だけれども、歌ばかりではなくドラマもきちんとあり、そのバランスが非常に上手く取れていたと思います。「大事な人と見てほしい」と何処かに書いてありましたが、わたしもそう思います。それは恋人、家族、友人。共に夢を追う仲間でも構いません。是非とも劇場の大きなスクリーンで観てほしいと思います。普段はパンフレットは購入しないのですが、劇場を出て真っ直ぐ売店に向かいました。何度も観たくなる作品。わたしにも夢があります。そんなわたしの背中を押してくれた作品でもあります。初日に観ることができ本当に嬉しく思います。また劇場に、ラ・ラ・ランドの世界にお邪魔したいと思います。

f:id:trsfthplstr:20170224212908j:image 

誰でもない自分に目を向けられていますか?

少し昔話をしたいと思います。つい1年半前までのわたしは自分と他者を比べて生きているのが殆どでした。「あの人の方が」と比べて、他人にばかり目を向けて。自分に目を向けたとしても溢れる言葉は良いものではありませんでした。そうやって自分を否定して生き続けて、ときには「わたしの方が頑張っている」などと無理に自分を肯定して。今思うと、苦しかったのだと思います。それでも自分は頑張って生きていると、せめて自分だけでも認めてあげたかったのだと思います。

 

幼い頃から「比べる・比べられる」状況にわたしたちは置かれているのだと思います。例えば勉強や運動。例えばお金。世界には「自分」以外の人しかいませんから比べてしまうのは当然なのかもしれません。比べることによって自分の様々な面が、知らなかった面が浮き彫りになる可能性も大いにあります。ですので比べることが悪いこととは一概にはいえません。

 

でもわたしはもっとその目を自分に向けてほしいと思うのです。

 

自分に目を向けるってどうするの?そのままです。難しいことでも、お金のかかることでもありません。ただ今まで他人に向けてきた目、言い換えればパワーを自分に向けるだけです。

 

究極で言えば「わたしは居るだけでいい」そう思えるかどうか。

 

わざわざ自分が比べなくても他人がわたしと誰かを比べています。上司だったり友達だったり先輩だったり後輩だったり。その上でまた自分が自分を比べる必要ってあるのでしょうか。わたしはその方が頑張れる、という人なら良いと思います。でもわたしは人に向けていたパワーを自分に向けるようになってから全てが変わったように思えます。自分という存在を大事に感じることができ、大嫌いだった自分が少しずつ好きになって、わたしはわたしでいいのだと心から思うことができました。わたしがわたしで居るから良いのだと気付きました。

 

他人に向けていたその目を少しでも自分に向けることができたら、世界はまた違って見えるでしょう。

まずは自分から。

 

「構成された」もの

【人は変わる。己が今いる環境、得た知識、感じた思い。私たちは「構成された」もの。それが変化すれば自ずと変わる】

 

夜中にぱっと思って呟いた言葉を今一度見つめ、考えてみたら誰でもない自分のことを言っていた言葉でした。「私たちは」というより「わたしは」の言葉。

 

5日程前に抱いていた気持ちが変わっていたり、一ヶ月前はこう、と思っていた気持ちが180度変わっていたり。ころころ、とは言いませんが自分の気持ちが変わっていることが以前に比べて多いかもしれないと思いました。それが悪いことのようにも思えたのですが、今考えると全くそんなことはないなと思うのです。寧ろその変化を楽しんでいこうと、今は思っています。実際は、気付いてから直ぐに楽しんでいます(笑)

 

最初はその変化に戸惑うかもしれません。でもそれすらも楽しめたら。何かがまた変わる、そんな気がしませんか?何かを手放したとき新しい何かが入ってくるように、自分の変化を受け入れたとき違った世界が見えてくるでしょう。

 

「構成された」とはわたしの感覚で言えば吸収できるベースができている、ということです。受動態のように見えて能動態と言ったところでしょうか。「柔軟さ」とも言えるかもしれません。己の考えはきちんと思っていて、その上で外部からのものを受け入れられる柔軟さ。そんな柔軟さを持っている人は己のものだけでなく、きっと様々な価値観、考え、思いで構成されている人なのだと思います。

 

変化を恐れず楽しんで。あなたはどんなことをしても、どんなことを思ってもあなたに変わりはありません。それを忘れずに生きていてくれたら、それだけで良いのだとわたしは思います。

 

広告を非表示にする

映画「たかが世界の終わり」

家族は他人の寄せ集め、そう教えてくれた人がいました。結局は他人なのだから気にすることなんてないと18歳のわたしに教えてくれたあの人は今何をしているのでしょう。

 

 

家族だからこそ分かり合えないことなんて山程あります。家族だからこそ思いを打ち明けられないこと、目を背けたいこと、関わりたくないこと。分かり合えないからこそ火がついてしまうことも同じくらいあるのだろうと思っています。ぶつかって、理解できることできないことが出てきて苦しんで。もう伝えることをやめようと思っていても避けられないシーンはやってくる。家族とは一体何なのか、どういうものなのか分からない、そんな思いが出てくることもあると思います。でも正解はない、きっと。この作品を観てわたしはそう感じました。

 

 

また観ながら愛について考えていました。

(ルイの家族はぶつかっていても心の奥底にはそれぞれに対する愛があるなと感じたから)

愛には様々な形態があります。なぜ様々な形態が存在するのか。それは生きていくことと共に形成されるからだと思います。バックグラウンドにもよるだろうし、今まで生きてきた時間の長さや濃度、築いてきた関係性にもよるでしょう。角のない丸い愛、尖っている愛、触れれば消えてしまうものもあるかもしれません。生きていく中でそれは何度となくカタチを変えるでしょう。それぞれが、それぞれの愛のカタチを持って生きています。でもそれは必ずしも他人から理解してもらえるもの、受け入れてもらえるものではありません。だからこそぶつかるし、理解し合えないのではないでしょうか。

 

 

「愛があっても生きるのは苦しいし、結局は何が私たちを救うのか」

 

 

そんなことも感じた映画でした。

感想や思いを伝えるのがこんなにも難しいと感じた作品は久しぶりで上手く言葉にすることが出来なかったが、それは観れば分かるとだけ言っておきます。

 

f:id:trsfthplstr:20170216153406j:plain

MAMORU MIYANO LIVE in TAIWAN〜REMIXING!〜 LIVE VIEWING

昨日、宮野真守さん初の海外公演にライブビューイングを通して参加してきました。

彼は上京して19歳のときに知った方です。歌が非常に上手く、ダンスもキレがあり完成度の高いパフォーマンスを提供する一方、とてもコミカルな方という印象を持っていました。
彼の情報を追っているわけでも、出演作品を全て見ているわけでも、ライブに参加したことがあるわけでもないわたしですが、今回のライブビューに参加して感じことを残したいと思い書くことにしました。
ファンとはまだ言えないわたしが書いたものなので、その点を念頭に置いて読んでいただけたら嬉しいです。

 

 

 

登場した瞬間の熱量、そして圧倒的存在感。
溢れんばかりのその熱量に思わず涙が出てしまいました。

 

海外での初公演になった土地は台湾。
ライブビューイングに映るファンの中には男性も多く、また年代も様々で国境、人種、性、年代全てを超える人々を魅了していることが分かります。

 

彼のあのエネルギーは一体どこから来るものなのか。過去のライブの映像を見て感じていたことを今日も感じました。

 

わたしが持っている円盤は「MAMORU MIYANO LIVE TOUR 2012-13 〜BIGINING!〜」
これを購入したとき「さあ買いに行くぞ!」という意気込みはなく、そのときふと思った「エンターテイナーの作品がみたい」という気持ちからでした。それは映画でもミュージカルでもなんでも良かったのですが、そのとき真っ先に浮かんだのが彼、宮野真守さんの存在でした。そのとき既にエンターテイナーといえば宮野さんという方程式が出来ていたのかと思います。円盤を観て、彼こそがエンターテイナーというわたしの思いはどんどん強くなっていきました。誰よりも彼自身がその瞬間を楽しんでいて、客席も負けないくらい楽しんでいたのです。そこに存在する熱量をもし自分が生で感じたらどうなってしまうのか思わず想像してしまいました。計り知れない熱量が画面を通して伝わってくるなんてそうそうあるものではないと思います。少なくともわたしの世界においてはありません。
多忙であろう彼があんなにも完成度の高いパフォーマンスを魅せることができるその原動力は何か。それが知りたくてライブビューイングに参加しました。

 

時間が進む毎にその理由が分かりました。
その原動力は誰でもない彼を応援する全てのファンにあったのです。
誰でもないファンの為にあの熱量は生み出され、誰でもないファンの為の時間を彼が作り上げている。それはプロとして当たり前のことかもしれません。でもわたしが感じたのはプロとして、というよりも「宮野真守」という1人の人間としての思いでした。
あの瞬間のファンの笑顔は彼にしか作り出せないもの、彼にしか出来ないこと。そして彼もそれをきちんと分かっていて、だからこそのあのパフォーマンスなのだと思います。そして彼のパフォーマンスにはファンへの感謝の気持ちや、貰ったパワーやエネルギーを返していこうという気持ちが表れていました。目に見えて分かるくらいその気持ちが溢れていました。そして同じくらい彼は口にするのです。「ありがとう」と何度も感謝の気持ちを述べ「台湾に来れて嬉しいよ!」と素直に己の思いを伝え、「心を込めて歌います」とその言葉にも思いを込めて、心を込めて。

 

生きていれば辛いことも投げ出したいこともいっぱいあります。わたしの尊敬する大好きなライターの方も言っていましたが、生きるということだけでも物凄いパワーを使うのです。お金を稼がなければ生活は出来ないし、ご飯を食べなければ空腹で仕事も手に付かない。睡眠を取らなければ活動することも出来ず、お風呂に入らなければ清潔感がないと見なされる。単純に生活するだけでもこんなにも大変なのに、その上学校や仕事があって、その中で人間関係を築かなければならない。これは必須で避けて通ることはできないし、必ずしもそれが良好なものとは限らないのです。

 

でも彼のファンにとって、彼との時間はそういうものを全て忘れて、取っ払って、軽くして、もしかしたらなくしてくれる、そういうものなのかもしれません。誰かにとって、そういう存在は彼しかいないのかもしれません。心に抱えているものをエネルギーに変えられるのはあの空間だけなのかもしれない。
そしてそれは彼にとっても同じなのでしょう。ファンがいるから彼はこんなにもパワフルにエネルギッシュにステージに立てるのだと思います。わたしが今まで行ったライブの中でこんなにもステージに立つ側がファンのみんなが大好きだよと何度も何度も感じることが出来たのは初めてでした。ファンが彼を好きだという気持ち以上に、ファンのみんながこんなにも大好きで、大事な存在なんだという彼の気持ちがライブビューイングのスクリーンからも感じられたのです。
今回のライブビューイングで彼と彼のファンの関係性の強さと大きな愛を感じることができました。

 

本編終盤で後ろのスクリーンに練習風景から台湾出発、台湾着、そしてそれを迎える現地ファンの様子や、移動する中での道のり、物販の様子を映した映像が流れていました。ギリギリまで作り込まれたこの空間は愛としか言えないのではないでしょうか。宮野さん本人、ファン、そしてスタッフ、誰1人として欠けてはいけない存在がここにはあって、終演後には彼だけではない、全員で作り上げた空間と愛なのだと知ったのです。

 

宮野さんは唯一無二の存在です。わたしの世界の中で、25年の人生の中で唯一無二と言える人物は彼以外にはいません。もしかしたらこれから先も彼だけなのかもしれない、そう思いました。

 

あの空間、感覚的に捉えたのは「色」でした。温度よりも色が見えるような世界。それはまさに虹のようにカラフルに、鮮やかにそこにあったのです。「様々な宮野真守を魅せたい(みせたいは敢えてこの漢字を使わせて貰った)」そう言ったように様々な色が溢れていた2時間半だったように思えました。

 

彼のパフォーマンスを見て、自分自信に関してまた改めて感じたことがあります。25歳になったとき掲げた目標をクリアするべく今自分ができることは何かということ。また吹っ切れた思いもありました。


今日参加できて本当に良かったです。宮野さんの世界に、彼を支えるスタッフ、そして彼を応援するファンの中に2時間半加わることが出来、非常に嬉しく思います。

受け取ったエネルギーと思いを次なるステージへ。そしてまた、誰かに受け渡し繋いでいきたいと思いました。 

 

拝啓、雨宮まみ様

まみさんの訃報を聞いてもう少しで3ヶ月が経とうとしています。今日の東京は雪だか雨だかよく分からないお天気です。わたしはヴェローチェでコーヒーを飲みながらこれを書いています。入店したのは2時間前なのでわたしのコーヒーは冷め切っていて、それはそれで何だか良いなと思っています。

 

先程ふと、心の奥底にしまっていることを人に話してしまいたいと思いました。でも話したからって好転するわけでもないし、わたしはどうしたいのか分からなくなりました。家族になんて言えるわけがない。わたしにとっては一番言えない関係性の人たちだからです。かといって友達に話すと絶対に重くなるし、どこまで話していいか分からなくなります。お世話になったお母さんのような人に話せるかと言われれば話せない。こうやって誰にも話せないで終わることが自分の奥底にあって、それが1つじゃないから困ったものです。

 

人に何か求めている自分が嫌になる瞬間でした。自分との向き合い方、人との向き合い方にまた悩み始め、さっきからそのことで頭がいっぱいです。

 

こういうのを話せる人って一体誰なんでしょう。

 

そんな気持ちで手帳に書いたまみさんの言葉を読んで思ったのはまみさん以外にいない、ということでした。まみさんだったらなんて言葉を返してくれるのだろう。お会いしたこともないまみさんに聞いて欲しいだなんておこがましいなとも思うのですが、まみさん以外にいないのです。でももう、貴女はいません。雨宮まみという人を失ったわたしたちはどう生きていけばいいのでしょうか。この厳しい時代、強く生きなければと頭では分かっていても、強くあり続けるというのは肉体的にも精神的にも非常にくるものがあります。

 

本を開けばまみさんの言葉があって、その言葉は生き続けています。有難いことです。この先何度となく来る困難に立ち向かうとき、どうしようもなく沈んでしまった日の夜わたしはまみさんの言葉を何度も何度も読むのでしょう。その度貴女の存在の大きさを強く感じるのでしょう。

 

まみさんの文は不思議とまるで自分に語りかけてくれるようなものがあります。だからきっと、わたしはまみさんのことを好きになったのだと思います。そこには温度や色があって、わたしから見た読んだまみさんの言葉は柔らかいオレンジであたたかいものなのです。じんわりとこのどうしようもない気持ちをあたためて溶かしてくれるもの。人生という時の中で貴女の存在を知れたこと、文を読めたこと、言葉を受け取ることができたこと全て幸福に思います。

 

今もやっぱり悲しいし泣きたくなるときもありますが、でもまみさんはやっぱりわたしの中では生きているのできっと大丈夫です。
これからも貴女の言葉とともにわたしは生きるでしょう。

 

ふと、でもどうしても書きたくなったので思うがままに書きました。これからも雨宮まみさんが大好きです。

 

広告を非表示にする