綴れば綴る程に遠くて

主に思考記録です。

加州清光単騎出陣2017

ミュージカル刀剣乱舞の加州清光のソロ公演に行ってきた。一曲一曲の感想ではなく、全体の感想のみ述べたいと思う。

 

(ここから暫く前置き)

 

刀剣乱舞はゲームリリース時に知っていたものの、PCを所持していなかったのでポケットから始めた。もともとゲームが苦手だったため、案の定1ヶ月足らずでログインしなくなってしまった。しかし昨年秋に始まった刀剣乱舞のアニメを観て彼らの日常に触れて、またゲームをスタートしようと思い始めた。順調にレベルを上げ、新たな刀剣男士を迎え、戦場に向かっていく日々だった。ところが旅行先の箱根でiPhoneを落とし、バキバキに割ってしまい…。引き継ぎやPC連携なんてしていなかったわたしの本丸は消えてしまった。もう二度とこんなことにはならないよう今はPCと連携させている。

 

ゲーム、アニメと楽しむ中ミュージカルの存在を知ることとなった。しかも、わたしが推している沖田組がいる幕末天狼傳。せめてライビュでも、そう思ったがその日は夜から仕事の予定が入っていた為断念。真剣乱舞祭も休めない曜日ときたため、円盤を待つことになる。

 

3月に幕末天狼傳の円盤がリリースされ、友人と鑑賞することになった。初めて刀ミュを観て想像以上の深さに驚愕した。自分の中に投げかけてくるものがあった。観終わったら終わりではない作品だと感じた。自分が何を感じたか、考えて己なりの答えを出して初めて完結するものだと思った。恐らく、付喪神である刀剣男士だからこそ、此処まで深く投げかけてくるのではないだろうか。人でもない、モノでもない存在だから訴えることができることがあるのではないだろうか。

この刀ミュで始めて2.5次元のミュージカルを観ることとなった。普段の戦士の時とは違う彼らの表情や歌、ダンスはとても魅力的だった。音楽が大好きなわたしは「こんなに楽しい音楽あったんだ!」と嬉しくなった。生で観たいと強く感じた公演は初めてだった。

3月に幕を上げた「三百年の子守唄」で初めて会場で観劇することができた。

 

そして今年の夏、トライアルから出演している加州清光のソロ公演が発表となった。今回はその記念すべき加州清光の公演の感想を残したいと思う。

 

 

セットリスト

1.解けない魔法(Jazz ver.)

2.mistake

3.kiss for all the world

4.美しい悲劇

5.サヨナラ

6.見つめてくれるなら

7.Additional Times

8.show me the world

9.Love story

10.Dear you

11.漢道

12.刀剣乱舞(加州ソロver.)

13.勝利の旗

14.爪と牙

15.戦うモノの鎮魂歌

16.キミの詩

 

EN

1.情熱のSymphonia

2.解けない魔法

 

会場のライトが消されてから音楽が流れるあの一瞬で息が詰まるような感覚を覚える。これから始まるものが一体どんなものなのか。緊張、期待、ドキドキ、わくわく。感情という感情がミックスされ、一瞬にも関わらず、すぐに消化しきれない。

幕が上がり、中央に座る加州を囲むようにダンサーがいる。その様は「絶対王者」という言葉が相応しいようにも思えた。指先までしなやかで、綺麗だった。細部まで完璧を求めるようだった。初めての試みであるソロ公演にかける想いがここからも感じられたように思う。

 

序盤であっという間に魅せられてしまった。加州のイメージ、彼の持つ世界を壊さず新しい要素も加わっていて、あまりの魅せ方の上手さに震えてしまった。

 

表舞台に立つ職種の方々は恐らく「人々を楽しませたい」「みんなに元気や勇気を与えたい」などのプラス要素も持って仕事をしてくれているのだと思う。
加州を演じる、加州として立つと同時に「どうやって主たちを喜ばせようか考えてる」と言う彼の想いを強く感じ取ることができたのではないだろうか。沢山考えて、主たちのことを思っていてくれたのだなというのを非常に感じた。わたしは何も返すことが出来ないのにこんなに貰ってもいいのだろうかと思ってしまったくらいだ。そのくらい、彼の気持ちはとても強く、あたたかく、笑顔にしてくれるものだった。

彼が積み上げてきた、仲間である刀剣男士とともに、演出家、スタッフの方々、そして主たちと共につくり生きてきた「加州清光」を全て余すことなく魅せてくれた。彼は此処までくるのにどれだけ努力してくれたのだろう、そう思ったらその時間(言い換えれば命)は本当に有難くて、何にも代え難くてこんなにも「与えてくれる人」が此処にも居たのだと気付いて終盤から涙が止まらなかった。

見返りなく与えてくれる人はなかなかいないと思う。それが間違っていることとも言えないとわたしは思う。損得感情の関係性がダメだと言えるだろうか。死ぬまで誰かと関わり続けながらわたしたちは生きていく。その中で見返りを求めない、損得感情なしの関係性を持ち続けるのは難しい。出来る人もいるだろう、だがわたしはそこまで器用には生きれない。

大人になって不思議なことは生きれば生きるほど、削ぎ落とされていくということだ。よりシンプルな、ありのままの自分で居られるという不思議。これが「洗練されていく」ということなのかもしれない。知らず知らずのうちにリリースしている。大事なものだけを自然と選択しているのだ。

そうやって生きている中、彼のように「ただ与えてくれる人」と出会うとまた何かが削ぎ落とされて、クリアな自分でいれる時間が訪れる。

「与える」という行為はわたしたちが考えているよりももっと、純粋なことなのかもしれない。不純物が混入されていない状態を指すのだろう。そしてそれは、こうやって人々の心に訴えかけるものがあるのだと思う。純粋だからこそ、より。

こんなにも素敵な人がいて、わたしは生かされて、それがどれだけ幸せなことか。それが自分の力になる。また頑張ろうと思える。言葉を介さずとも、伝わること、受け取れることがあるのだと改めて感じた時間だった。

例えば10年後、このサイクルは別対象と作られるかもしれない。でも、この日のわたしは、上記のことを感じたわたしはミュージカル刀剣乱舞の加州清光がくれたもの。

 

佐藤流司くん本当にお疲れ様でした。

ダンサーの皆さん、スタッフさん、関係者の皆さん、刀剣男士たち、そしてたくさんの主さんたち。

本当にどうもありがとうございます。また一つ得たものを心に、わたしは生きていく。

 

 

信じることで初めて存在する

愛も、運命も、奇跡も。

 

信じることで初めてそれは生まれるのだと思う。だからわたしは信じる。わたしのその思いが、それらを生み出す。作り出すのだ。

 

つまり愛も、運命も、奇跡も、自らが生み出すもの。誰でもない、自分の手で生み出すことが出来るもの。

 

信じるって、物凄いパワーを持っている。

「本当だから信じるんじゃなくて、信じるから本当になるの」

ドラマ「野ブタ。をプロデュース」の台詞の一つだ。以前のわたしは前者だった。本当だから信じる。信じるということに付加価値を付けていたかったのだろう。失敗しない、恥ずかしくない。根拠のないものを信じる意味なんてないと思っていた。でも今はそんなことどうだっていいと思っている。重要視するのはそこではない。

「信じるから本当になる」この言葉は本物であった。信じるパワーがまたわたしの原動力となった。

 

だがしかし、人に対してつかう場合、捉え方によっては難しい言葉だと感じる。取り扱い注意と言っても過言ではないだろう。

その中で相手にどう言葉を送るか。

その相手との関係性も大事が。

 

眠くなってきたので今日ここまで。また今度。

何度目の人の世

この魂は、今何度目の人の世なのだろう。何度目の人生で、何度目の肉体なのだろう。

もし、魂が幾度となく巡るのであれば今は何度目なのだろう。ふと、そんなことを思った。

 

それと同時に思ったのは、人として肉体を持ち生きるたびに大切に想う人は居たのだろうかということ。今だからこそ周りの人がどれだけ自分にとって大事な人たちなのか。どれだけ支えて貰っているのか。出会えたことがどれ程の奇跡なのか、感じる日々。そう感じられるようになった今だからこそ、出てきた疑問でもある。

 

パートナー、家族、友人など、生きるたび大切に想う人が居てくれたらいいなと思う。今のわたしは、そういう人たちがいることでもっと自分のことを好きになれたから。もっと自分のことを愛せるようになったから。そう思えたら、周りの人だけではなく、目に映るものや聞こえる音、触れるものにも愛おしさを感じられるようになったから。今ここにいることでさえも奇跡なのだと十分すぎるほどに分かったから。安易に運命という言葉は使いたくないのだが、運命なのだと感じる瞬間も増えた。奇跡であり運命である。巡り合わせとはなんと素敵なものだろう。このご縁、どうか、どんな形でもいい。来世でもその次の世でも続いて欲しい。そして今出会えた人たち、大切に想う人たちが今の人生を終え、次の人生を歩むときも幸せでありますように。

 

今、深い感謝を。

 

aikoのスターを聴きながら。

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スターナイト・ヒーリング 〜星に包まれた森〜

友人とプラネタリウムを観てきた。久しぶりのプラネタリウムは学生時代からの友人がオススメしていたものだ。

 

様々な生物、植物、命溢れる森で見られる四季折々の星々。外敵から身を守るために出される香りはわたしたちの癒しとなる。「夏に青春を謳歌し、秋に成熟する」木々をそのような言葉で表現していた。この夏見た葉は秋に生命のピークを迎えるのだろう。そして冬に枯れ、その命は終わる。そして春にまた新たな生命が生まれる。そうやって絶えず命は在り続ける。何千年、何万年と続くサイクルである。

 

作中では屋久島の縄文杉が紹介されていた。推定樹齢に振れ幅はあるものの、今回は7000年と紹介されていた。

7000年もの間数え切れないほどのサイクルを見てきたのだろう。多くの生命に寄り添いながら生きてきたこの木は、時代の変化をどう感じてきたのだろうか。人も、植物も生物も等しき命。「共に生きる」ということを深く感じた時間だった。

わたしたち一つ一つの生命がこの世界を構成し、世界と共に生きていることに非常に大きな愛を感じた。「愛おしい」素直にそう思った。まるで私自身、屋久島に赴き感じたようにも思えた。不思議な時間だった。想いはいつか消えてしまうかもしれない。それでも、命はめぐり続ける。それだけのことなのに、こんなにも深く愛を感じることなんてなかった。わたしは静かに涙を零した。

 

今時分が生きていること。誰かと過ごしている時間。感じる空気、美しい空。好きな音。目に留まる言葉たち。日々こんなにも多くのものを感じ、受け生きていること。なんて素晴らしいことなのだろう。なんて有難いことなのだろう。いつか終わりは来てしまうけれど、わたしがわたしでなくなってしまうのは寂しいけれど、その瞬間までわたしを生きよう。今を生きよう。今、この瞬間を。

 

 

 

 

余談だが、大好きな宮野真守さんの先月リリースされたアルバムのジャケットは屋久島で撮影されたものである。屋久島の話とは知らなかったのでリンクした瞬間、なんてタイミングなのだろうと思った。最近、あらゆるものが全てベストなタイミングでくる。そして見るもの、聴くものも全てが自分好みのもの。わたしがわたし生き、歩んでいるのだなと感じている。同じ人はいないから、だからこそ自分を生きることが人生に於いては大事なのだと思う。誰でもない自分を生きるということ。そのためにはまず己と対話すること。必要不可欠なことだとわたしは思っている。次はどんなものに出会うのか、シンクロするのか楽しみに生きていきたい。

2年振りに実家に帰った。地元の夏は相変わらず肌寒かった。訛りのある会話を耳にすると、やっと帰ってきたのだと実感が湧いた。

 

2年前、母と喧嘩別れをしてから帰っていなかった。

帰省するたびにお金をせびる母に限界を感じたわたしは「いい加減にしてよ!」と大きな声をあげた。いつもそうだった。「ちょっと足りなくて」を繰り返していた。うんざりだった。父と離婚して母方の家に越したあと、家計は医師である祖父が支えてくれていた。母は働くことはなく家にいた。父のDVが原因でうつ病になっていたこともあり、働ける状態ではなかった。そもそも、父と結婚する前働いていたのだろうか。未だに謎である。

正直母との思い出に良いものはあまりない。パッと出てこないくらいだ。幼い頃ならば幾つか挙げられるが、中学高校の頃は思い出せない。

 

2年前、東京に戻る日はろくに顔も合わせず、わたしは黙って家を出た。

 

実家には先に帰ってきていた妹と姪がいた。「ただいま」と言って玄関の扉を開けると母と姪が迎えてくれた。2年振りの母に大きな変化は感じなかった。もともと化粧をする人ではなかったし、お洒落に気を遣うタイプでもなかったので尚更だ。

 

今回は1週間と長めの帰省だ。お盆に帰ってきたのは何年振りだろう。正直なところ、祖父母の御墓参りが一番の目的だった。2年も御墓参りに行ってないなんて、という思いが強かったのだ。そしてもう一つの目的が父の御墓参りだ。13歳の時、父が死んで一度御墓参りに行ったきりだった。あの時は憎しみでいっぱいだった。「なぜこの男の為に」そう思っていた。6月にオープンカウンセリングを受けて行こうと思ったのだ。13歳の頃の自分が未だにわたしの中で頑張ろうとしている。そんな自分をもう解放してあげたかったのだ。

 

帰省3日目、わたしは妹と隣に住む親戚と父の御墓参りに行った。墓石の前に立つわたしの心は穏やかなものだった。許されることではないと今でも強く感じている。でも、これを乗り越えられないとわたしはわたしに還れない。わたしの為に、あの頃からただひたすらに頑張ってきてくれた13歳のわたしを解放する為に、わたしは手を合わせた。とてもクリアな気持ちだった。わたしの中の痞えの一つが、消えてなくなった。

 

実家での生活はゆるやかなものだった。いつもより少し遅く起きてコーヒーを飲む。何もしない生活もまた幸せだった。母は姪とよく一緒にいた。というよりも、姪が母の後ろをてくてくと歩き、抱っこをせがみ、母から離れなかったのだ。「ばあばは膝が悪いからおばさんが抱っこしてあげる!」と言うと姪は首を横に振り、また母にせがむのだった。微笑ましかった。おむつを替えてあげたり、食事の際エプロンをつけてあげたり。とても、とても微笑ましかった。

 

それと同時に母はこうやってわたしたちの世話もしてくれたのだろうかと考えた。3人の娘をこうやって育ててくれたのだろうかと。父のことで悩み、苦しみながらも踏ん張って育ててくれたのだろうかと思ったら自分が情けなくなった。

どうして、大事なことに気付くのは大人になってからなのだろうか。

結局、わたしは何も知らなかったのだ。何も理解しようともしていなかったのだ。誰にだって目につくところはある。完璧な人間なんていない。完璧な親だっていない。不器用で真っ直ぐに伝えることが苦手な親だっている。でも親はいつだって子どもの幸せを願っている。母もそうだったのだ。電話をくれたのも、手紙をくれたのも、写真を送ってくれたのも、全部わたしに向けられた愛だったのだ。こんなにも愛されていたのだ。どうして、今更気付いたのだろう。母はいつだってわたしたちのことを想ってくれていたのだ。そして、今もきっと。わたしたちは一生母の子どもなのだ。嫁に行こうが、独身貫いて自由に生きていようが、何処にいて何をしようが母の「子ども」なのだ。

 

帰省していた1週間わたしはたくさん「ありがとう」という言葉を掛けた。母はやっぱり母で、たくさん気に掛け、色々と世話をしてくれた。空白の時間を埋めようとは思わない。埋められるとも思わない。ならば、これから新たに積み上げていけばいい。思い出も想いも、言葉も。

 

母は最期の時、わたしが娘で良かったと思ってくれるだろうか。どんな人生だったと思うのだろうか。辛いこともあったけれど、良い人生だったと思ってくれるだろうか。わたしは母の最期の瞬間まで、これから何が出来るだろうか。今も考える。最期、共に居たいと思う。正直、東京での生活を数年内に終わりにしようかとも考えている。

 

母がわたしを愛してくれるように、わたしもまた母のことを愛している。

これが愛なのだと、今そう感じている。

 

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求めても得られない

本当の意味で
自分に許可を出せるのも
自分自身を許せるのも
自分しかいない。

 

自分にしかできないことなのに
他人任せな人は多い。

 

他人に求めるべきものではない。

 

「幸せ」だって他人に与えて貰おうとするのではなく
自分で探し出して、自分で見つけて、
自分で決めるもの。

 

他人任せにするから
「わたしはこうなのに」「これだけやったのに」
結果「なぜ報われないの?」となる。

 

他人を変えることは難しい。
でも、あなたは変われる。
あなた自身を変えることはできる、間違いなく。

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世界から、愛される。

昨日、複数のことが重なったとき「ああ、世界から愛されてるな」と思った。

 

気付いていないだけで、本当は誰しもが世界から愛されてる。

 

誰かの想いを受けたとき、それが恋愛でなくとも、遠い存在の人であろうと、その想いは確かにここにあって。それは優しくて、わたしを微笑ませ、時に喜びの涙を流させる。誰かを想う気持ちとはなんと美しいものなのだろう。なんとありがたいものなのだろう。

 

 

 

 

 

わたしたちはこの世界に関わっている。どうしようもなく。死んだらこの世界を構成するものになるだろう。この世界に還り、時が経てば、また生きるのだろう。何度も何度も。死は終わりなのか、始まりなのかと問われれば「元の状態に戻ること」だとわたしは答える。どちらでもない。

 

時は流れ続けるのか。死んだとき、時は存在するのか。わたしは存在しないと思う。それは異次元とも言えるかもしれない。

 

世界と関わるって面白い。感じられるのは今だけ。今、たくさん感じて、たくさん考えて、面白いと思えるだけ思って生きようと思う。