綴れば綴る程に遠くて

主に思考記録です。

そこにはパターンがあるだけ

昨日、また職場で「人生について考えすぎだと思うよ」と言われた。でも今までこれで生きてきたので。今更変われないと思います(し、変わろうという気持ちはない。今の自分が好きだから)と言ったら「まだ若いから変われるよ〜」と言われた。

 

若さって何ですか。

 

わたしは単に25年生きてきた訳ではない。わたし自身を25年間生きてきたし、わたし自身をやってきた。そこに若さとか関係あるのだろうか。自分を25年やってきた、そう考えると若い(もしくは短い)と思うのだろうか。思う人もいるかもしれない。でもわたしは25年って凄いなと単純に思う。自分が嫌いだった時期はとても長かったし、何度死のうと思ったか分からない。でもわたしはわたしを諦めずに生きてきた。この25年間はとても濃いものだった。それは間違いない。

 

考えすぎることは悪いことではないと思う。そもそも捉え方に疑問を感じる。わたしのように「考えすぎる人」は、ただのパターンの一つでしかない。データやサンプル言ってもいい。

 

わたしというパターンがここにはある。

 

あなたというパターンがそこにはある。

 

たったそれだけのこと。

 

それ以上でも、それ以下でもない。

 

人に何か言われても「わたしはこういうパターンの人間なんです」で済むことだ。みんな違う人間だもの、当たり前。そこに優劣をつける必要なんて本来はないはずなのだ。

 

静かに考えてみた

好きになった人(推し)が生きている世界で生きていて。

応援できて、たまに会いにいけて。

海よりも空の方が続いている気がして。

果てしなくとも一つの空で。

なんでもないことが本当に本当にありがたくて幸せなことなんだと感じる。

 

美しい世界にわたしは生きてるんだな。

 

上手に生きることは苦手。

そしてそれが出来ない。

この先も不器用なまま生きるのだろう。

けれど、丁寧に生きる人でありたい。

生活することが幸せだなと生涯感じられる人でありたい。

人とのご縁やご恩を誰かにも与えて生きたい。

 

誰かの目に素敵に映るわたしでありたい。

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ありがとうと言って、解放しよう。

シンポジウムでオープンカウンセリングしてもらった後、主催の方が「わたし親に会うわ…」と仰っていた。そして先日のブログで会ってきたよって報告されていて、わたしもそろそろ過去のわたしを、母を、父を、みんなを解放しなきゃと静かに思った。

 

過去の自分を解放するって凄くパワーのいること。解放するってことは「許す」ことでもあり「逃げずに向き合う」ことでもあるから。出来るだろうか。でも解放したい。

 

そして父の御墓参りもいこうかなと。12年ぶりに。死んだ時行っただけだから。でも場所が分からない上に、名前が曖昧。父親の名前すらはっきりと覚えていないのです。それでもこの夏行かなきゃいけない気がしてならない。

 

この夏、全てを終わらせたい。

 

終わりはある。楽しいことにも悲しいことにも、辛いことにも。全てに終わりがある。人生にも終わりはあるでしょう?続かないの。

 

今がね、終わる瞬間なの。13歳のわたしよ。今終わりにしよう。頑張ったね。ありがとう。今度はわたしが頑張るから、もう頑張らなくていいよ。たくさんたくさん、わたしを守ってくれてありがとう。

言いたいこと詰め込みすぎてタイトルが決まらなかった

前回の記事でも少し触れたこと。

 

わたしは10代の時期「いかに人を頼らないか」で生きてきた。わたしの中で誰かを頼ることは「弱い」ことであって「情けない」ことだったから。早い段階から「自立しないといけない」気がしていて、早く大人になりたいと思っていた。

 

人を頼らない=自立=大人

 

という方程式を自分の中に抱えていた。しかし今でも「大人って何だ?」と考えることは多い。大人だと言われても「わたしはわたしだし?」20年生きたら大人なんて随分とチョロいなと思ってしまう。大人って何でしょう。

 

この方程式が崩れたのは東京に出てきてからだった。

親元を離れ、仕送りもなく東京で生きて行く。進学のために東京に出たいと言ったのはわたしだから、弱音なんて吐いていられない。無理かもと思っても、生きねばならない。逃れられない。共に暮らしていた姉とは金銭面で喧嘩となり家の中で顔を合わせることもほぼなくなった。生きる為に必死に今を生きているような生活だった。相当追い込まれていたと思う。歯科医院でのバイトも入って数ヶ月でどんどん人が辞め、分からないながらも兎に角やるしかなくて。生活するってこんなに大変なことなんだなと心底感じた。

それでも人を頼ろうとはしなかった。弱音も吐きたくなかった。人の前では平気な顔で居たかった。強くありたかった。

 

でも本当は真逆だった。

 

弱音は吐きたいし、なんなら泣きたいし。頑張りたくないし、解放されたかったし、人だって頼りたい。

じゃあなんで出来なかったのか。

 

「らしくない」そう思っていたから。

 

人を頼るなんて「らしくない」

弱音を吐くなんて「らしくない」

泣くなんて「らしくない」

 

他人から「◯◯だと思われたい」という気持ちはないだろうか。わたしはその気持ちが強かった。幼い頃の環境もあるだろう。手のかからない子どもでありたかった。

抜きどころが分からずそのまま生きてしまった結果「人を頼らずに弱音を吐かないわたし」が出来上がってしまった。作り上げたのは誰でもない自分だった。段々とコントロールが難しくなって、わたしは度々限界を迎えた。

そんなとき救ってくれたのは東京で出会った大人たちだった。特にバイト先のパートさんたち。わたしにとっての東京の母や姉たち。彼女たちに出会ってわたしは「人を頼る」ということを覚えた。

 

自分の弱さ、幼さを認めるのは難しかった。今でも人を頼ることは得意ではない。しかし「思ったより強くないんだ、わたし」そう受け入れてから、自分にはこんなにも素敵な友人や大人たちがいたのだと気付かされた。1人で頑張ろうと踠いていた日々よりも、誰かが教えて補って、支えてくれる日々のほうがずっと生きやすかった。頑張らないことで、人のあたたかさに気付いた。頑張らないってとても大切なんだと思った。

 

人にはそれぞれの得意分野があるとわたしは思っている。わたしにもわたしの得意分野、不得意分野がある。例えば恋愛は不得意分野、など。

これは一つの考え方だが、わたしはどうしようもなくなったらそれぞれのプロフェッショナルを頼るようにしている。恋愛のプロフェッショナル、人生のプロフェッショナル、仕事のプロフェッショナル、美容のプロフェッショナル。人と関わっていくと、不思議とその人は何のプロフェッショナルなのか見えてくるのだ。

 

わたしたちは残念ながら1人では生きてはいけない。というよりも、常に誰かの人生に関わっていて生きている。そして自分の人生に関わって貰って生きている。例え自分が望んでいなくとも。それでも1人で頑張りたいと思うならそれは自由。でもわたしはもう頑張らないと思う。たくさんの人が支えてくれると分かったから。弱いことは、誰かを頼ることは本当はとても強いことだと気付いたから。

 

最後にわたしの好きな言葉を紹介したい。この言葉に出会ったとき真理だと感じた。

 

「社会でうまくやっていこうと思ったら、まず頼りになる大人を見つけろ。一人でいいから。これはっていう大人見つかったら半分成功したようなもんなんだから。」

木皿 泉

 

2017年7月6日

5月、わたしはとある本を読んだ。現代社会が抱える宗教問題、遺伝子工学人工知能、環境破壊などの問題について考え答えを出して行く内容の本だった。書店で立ち読みをし、大変興味深かったため購入することにした。読みながら、自分が如何に世界の事柄に関して知識がなく、また無関心であったか痛感した。「自分と社会」でさえもピンと来ないのに「自分と世界」の関係性について考えられない、そう思っていた。しかしこの本を読み終えて、いつ歴史が転換を迎えてもおかしくない、その可能性が常にある中で自分は生きているということに気付かされた。

 

それまでは単純に「自分が成せることは何か。やりたいことは何か。命をもって返せるもの、返せることは何か」をずっと考えてきた。だが、同時に世界や社会との関わり方も真面目に考えなければいけないと感じた。わたしたちは社会に密接に関わっている。世界に密接に関わっている。一人で生きているのではないから。どうしようもなく誰かの人生に関わっていて、それはつまりどうしようもなくこの世界に関わっているということでもあるから。

 

1ヶ月半考え続けた。自分の夢や、これを成したい、そう思っていることを今の立ち位置からどうアプローチしていくか。「自分と社会は密接に関わっている」このことを前提に、自分はどう動いていけるのか。正直とても辛かった。考えれば考えるほど、自分が「こうしたい。あれをやりたい」という気持ちや、それに関することよりも現状社会について考えなければいけない時間が多くなっていった。本を読んで「じゃあ自分はこういうところを改めて、こうしよう」そう思っても今の社会が現状のままだと何も変わらない、変えられないと気付いてしまったから。個人ではなく「社会」が目を向けなければ何も変わらないのだ。

 

大きなギャップを感じざるを得なかった。

 

個人では限界がある。わたしは段々と今の自分が望んでいる生き方や夢を貫くのは無意味なことのように思えて仕方なかった。社会の行く末を考えたとき「生き延びる選択をし続けること」が一番無難な生き方ではないか、そう思えてきたのだ。切っても切れない社会と個人の関係性に絶望した。

 

それでも「誰かがやらねば」そう思ってしまった。冷静に考えてわたしのような一般人に何が出来るんだよってわたしも思っている。でも思うのだ。どうせ生きるなら自分の思うように生きて欲しいと。社会をどうにかしなきゃ、これから生きるひとたちが少しでも生きやすい、己の希望や夢を伝えあったりそこに向かってつき進めるように、そう思っていた。

 

 

 

先月末、そんな思いを抱えながらシンポジウムに行ってきた。わたしの尊敬する女性。わたしに「変化」をくれた女性のシンポジウム。正直ギリギリまで乗り気ではなかった。申込みをしたときはそれはそれはとても楽しみにしていた。だが、5月に入ってシンポジウムまで上記のことを考えて。シンポジウムなんて行っている場合なのか、とも思った。キャンセルしたところでお金は戻ってこないのだから行こうと思って当日会場に向かった。

 

講演、パネルディスカッション、そして対談と3部構成で途中休憩を挟みながらシンポジウムは進んで行った。対談では彼女がとても好きだというカウンセラーの方との対談だった。彼女の要望によりオープンカウンセリングをすることに。わたしは此処で迷いはあったもののチャンスだと思って手を挙げた。詳しい内容は機会があれば書こうと思う。このオープンカウンセリングを受けて、知らなかった自分の奥の奥の奥底にある声を引き出して貰った。これには非常に驚いた。まさに目から鱗。目から出たのは実際は涙だった。色んなことが解けていった。

 

対談でも出た話の一つなのだが、今の時代他者に許可を求めて生きている人は多い。「わたしこれで良いんですかね?」など。自信がない人に特に見られるようだ。でも本当は自分に許可を出せる人間は自分しかいない。本当は自分が良いなら良い筈なのだ。自分が望むものをただひたすらに与えることが出来るのも、良いか悪いか決められるのも自分しかいないのだ。自分の人生の責任者は自分しかいないから。自分の中の本当の神は自分しかありえないから。他人に許可を求める必要なんて一切ないのだ。

 

「ああ、そうだったな」とわたしはシンポジウムに参加してわたしを取り戻した。「自分御都合主義」「全肯定」でまた生き始めたら面白くなってきてしまったのだ。「生き延びるための選択をし続けること」を考えていたわたしは居なくなった。「わたしがオッケーならオールオッケーなんだ!」と馬鹿みたいに素直になり「社会がなんだ!わたしが絶対だ!」と完全な馬鹿になった。馬鹿で結構。むしろみんな素直すぎるくらい一回馬鹿になればいいのに、とさえ思う。この変わり様、わたしが一番面白がっているに違いない。

 

今日までも気付きや絡まった糸が解けて一つの円を今まさに描いているような感覚がある。わたしは頭で考えて考えて生きるよりも、思うように生きていた方がわたしらしいと思ったのだ。この「変化」が起こるまで絶対にそんな生き方はしないと思っていた。「わたしはこうあるべき」という思いをずっと抱えて「頼ることは弱いこと」だと思い生きてきて、これからもそう生きようと思っていた。それこそ現実を生きる為の選択をし続けてきた。23歳の終わりに起きた「変化」はまさにわたしにとっての転機だった。「わたしらしくない、ありえない」そう思っていたことが今一番わたしにフィットしている。不思議なものだ。

 

 

 

シンポジウムに行くまで社会との密接な関係に行き詰まりを感じていたが、だからこそわたしはわたしの生きたいように生きるのが良いのではないかと今は思う。

 

誰かのきっかけになれるよう。誰かにとっての頼りになる大人になれるよう。わたしらしく生きることが誰かを勇気付けたり救ったりできるような存在になれるよう。こういう生き方もあるのだなとデータとして、パターンとして映えるよう。わたしはそうやって生きたいと思う。この時代だからこそ。

 

わたしたちが後世に残せるのは、近しい人間に残せるのは結局は生き方なのではないかと思う。知識は勉強すれば得られる。お金は稼げば得られる。じゃあ他者からしか得られないものは何か、そう考えたら「生き方」しかないのかなと思う。ならば、死ぬ瞬間までわたしの生き方を残そう。

 

わたしがわたしを生きる理由がまた一つ増えた。それはとても光栄なこと、誇らしいこと。

 

 

 

 

 

長ったらしい、纏まりのないブログを読んでいただいてどうもありがとう。7月6日は天赦日であり、一粒万倍日でもあった。「誰かのきっかけ〜」の思いはまさにこの日改めて思った、決意したことだった。特に意識していない分、このような重なりが嬉しく思う。

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言葉のご紹介

手帳に書き留めた言葉たち。千は超えていると思う。たまに手帳から今の自分がいいなと思ったものを書き出して、「今」この瞬間のわたしが何を考えて何に悩んでいるかを見つけていったりしている。

 

 

 

あの人やあの人の道を照らしだす そんなことばが欲しいと思った。

 

加藤千恵

 

 

 

人は時に、

健気に生きているだけで、

誰かを救っていることがある。

 

東野圭吾

 

 

 

わたしの存在そのものが質問なんだ。

その答えを知りたくて生きてるんだ。

 

寺山修司

 

 

 

俺のカッコいいとことか、情けないとことか、くだらないとことか全部知ってくれる人がさ

世の中のどこかにいると思うだけで俺はいいの それで十分なの

 

本当だから信じるんじゃなくて、信じるから本当になるっていうの、わかる?

 

木皿泉

 

 

 

ビー玉をあまた購う人生の どこに落としてくる道しるべ

 

細溝洋子

 

 

 

八百枚の小説でも、本当に大切なのはその中のたった一行なのかもしれない。

 

小川洋子

 

 

 

あなたは愛される

愛されることから逃れられない

たとえあなたがすべての人を憎むとしても

たとえあなたが人生を憎むとしても

あなたは降りしきる雨に愛される

微風に揺れる野花に

えたいの知れぬ恐ろしい夢に

柱のかげのあなたの知らない誰かに愛される

 

谷川俊太郎

 

 

 

人間は人生の必要な時期に必要な人間としか出会わないし、そこで色々と学び尽くして一緒にいることの意味がなくなれば遠ざかっていくのは仕方ない。

 

島本理生

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先に活きるか

 

自分が今やっていることが先に活きるかはわからない。

 

でも、

 

それでもやることが情熱なんじゃないかなあ。

 

 

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